年頭にあたり<目指す地域の姿>

2018年、明けましておめでとうございます。

このブログでは、FB等で紹介できない長文の自分の考えや資料などを紹介していきます。よろしくお願いいたします。

 

アクティブラーニング研究会という持続可能な地域づくりと教育を関連させて考える研究会を立ち上げ、あるべき地域と教育の姿をわかりやすく伝える物語風の本📕を出すことになりました。わたしは<目指す地域の姿>という草稿を担当し「モノは地域の中でまわり、ヒトは広く世界と交流し、コミュニティをベースとした自然とともにあるくらし」というA4で6ページのたたき台をつくりました。日ごろ個々についてこうあるべきと考えていても、地域の姿としてまとめて描くというのは初めてでしたのでよい勉強になりました。

以下にそれを紹介します。

 

<目指す地域の姿>
モノは地域の中でまわりヒトはひろく世界とつながる

コミュニティをベースとした自然とともにあるくらし

1、全体像

(ダミー)

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2、地域の成り立ちと人のくらし

 

f:id:npo-ecom:20180105104716p:plain▲小川町植生図

f:id:npo-ecom:20180105104906p:plain▲荒川流域図

 

大地の歴史の上に展開された人間の開発の歴史

 

 埼玉県比企郡小川町は山地と丘陵と盆地から成り

立っている。山地から湧き出す水は槻川→都幾川

越辺川→荒川と流れて東京湾へ下る。

 この清冽な水を利用して和紙、酒、素麺づくりが盛

んになった。養蚕も栄えていたので絹織物もつくられ

ていた。
 交通の要衝であったため市も栄え商人が隆盛した。

スーパーのヤオコーも服のシマムラも小川町の商人

から発している。飲食店も多く、小京都と呼ばれる贅

を尽くした建築の街並みも残っている。

 池袋から1時間余という地の利から高度経済成長期

にはニュータウンもつくられ新住民も増えた。

 このように地域というのは流域という一つのまとま

った生態系の上に成立している。その基盤をなしてい

るのは大地の歴史(ジオヒストリー)であり、その上

に展開された人間の開発の歴史である。どこの地域で

もそのことに変わりはない。

 だからこの二つの歴史を自分の足で見てしっかり学び取ることから地域の未来へのビジョンが見えてくる。

 

3、家族とコミュニティ

 

家族全員が地域とかかわる

 

 X町に住む青山さん一家は6人家族。おばあさんは90歳で認知症(要介護認定2級)。認知症だけど後で出てくる駅前のカフェで来る人の話し相手になるボランティアを楽しそうにやっている。おじいさんは10年前に亡くなった。お父さんは58歳で酒造会社の酒蔵で働いている。お母さんは51歳でコミュニティコーディネーターという仕事をしている。これは10年前にはなかった職業で人々をつなぎ地域課題を解決していくうえで重要な役割を果たしている。長男は地元のツアー会社で働いている。ツアーといっても遠くに行くわけではなく、逆に地元に様々なニーズの人を連れてくることを仕事としている。次女は有機農業を営む農事組合法人の営業や財務を担当している。三女は駅前にある「埼玉裏山ベース」の運営するカフェの責任者をしている。

このように、青山さん一家6人は遠くまで通勤している人は一人もいず、全員が地域にかかわって仕事をしている。仕事のことは次に詳しく述べることにして、X町の特徴であるコミュニティでのたすけあいについて説明しよう。

 

コミュニティでのたすけあいのしくみ

 

 昔の日本の社会にはたいへんすばらしいたすけあいのしくみがあった。入会、結、講である。

入会(いりあい)というのは、だれのものでもないものを地域のみんなで共有し、その恵みがまた得られるように適切に管理し、使っていくしくみ。その代表例が茅場で、東京をはじめ各地に茅場町という地名が残されている。

茅場とは、昔の家は何年かに一回茅葺の茅を葺き替える必要があったが、その茅を共同で刈る場所である。普段は入ることが許されず、年に一回決められた期間にだけ入ることができる。

結(ゆい)は共同労働、労働交換のしくみ。茅葺屋根の葺き替えには相当な人数の人出が必要だったが、一家族だけでは賄えない。そこで近隣の家々が助っ人を出して手伝う。これをお互いさまにやり合うのが結。道普請(道路工事)などでも行われた。

講(こう)は無尽などとも呼ばれ、お金を融通し合うしくみ。富士講、伊勢講、出羽三山講などが盛んにおこなわれ、講仲間で積み立てを行い皆でお参り(観光旅行)に行った。金のない人には貸し与え、強制取り立てはしなかった。

経済人類学者カール・ポランニーは、人間の経済の歴史を総括して経済の三要素を挙げている。交換、再分配、互酬である(『大転換』1944/東洋経済新報社)。交換は市場での取引、再分配は税金の分配、互酬は講やプレゼント、お裾分けなどのお互いさまのやり取りである。20世紀初頭の社会では、グローバル経済化により再分配で行われる公の領域や互酬による共の領域まで市場経済化が侵食していた。お金がすべての社会になりつつあった。

  弱いものや自分でお金を稼げないものまで「自己責任」を当てはめることはできない。人間は昔からたすけあって生きてきたのであり、行き過ぎたグローバル化市場経済化の反省から、社会のしくみも、働き方もそのことをベースに考え直す必要があるという考え方がだんだん強くなってきた。

  そんなわけで、いまはシェアコミュニティ、つまりわかちあいを基本とする人と人のつながりがいきいきと蘇っている。しかも、昔のコミュニティのような相互監視や束縛といったマイナス面はなくなっている。というのは地縁、血縁だけでなく、趣味や文化、スポーツ、学習といったさまざまなクラブ縁、子どもつながりの縁、情報共有のSNS縁など多様な縁がすべて活かされているからだ。いまではたすけあいが当たり前の社会になっているので昔のようないじめや孤立、ニートなどもない。

  シェアコミュニティで行われていることのいくつかを紹介する。

カーシェアリング:いまは昔のように個人や家族で1台車を持つことはない。必要な人が必要な時に

使えばいいのだから、10軒に1台くらいの割合でカーシェアリングが行われている。1回2000円で家庭用プラグで充電しておきさえすればよい。

シェアハウス:一軒家や一軒のアパート、マンションでルームシェアするしくみだが、特徴は夕飯を一緒に食べること。そのために大きな共有の食堂がある。

シェアコミュニティ:昔増えてしまった空き家を活用して集落単位で活かす一つの方法。大きな家を共同食堂や共同風呂としてみんなで使い、その周りの家々にシニア世帯(一人暮らし含む)が住む。

つまりコミュニティ型グループホームである。

 

ささえあい型の地域ケア・医療のしくみ

 

 一昔前は「少子高齢化」といって高齢者(65歳以上)の人口が増えるにしたがって若年(29歳以下)の人口が減少していたが、各自治体や住民の地域再生(移住促進・関係人口増加)の取組によって人口減少カーブは緩やかになり、高齢者の増加は止まらないものの、若い世帯の増加が図られて地域の人口再生産構造は維持されるようになった。

 当時は都市と農山漁村の医療の格差も深刻であったが、医療に対する考え方も大きく変わり、ヒューマニズム(医は仁術)と住民参加を旨とする<地域でささえるケア・医療>になってきている。

 <地域でささえるケア・医療>とは、多様な人々(医師、看護師、介護士、ボランティアなど)が連携してキュア(医療)よりもケア(介護、療養)を重視して在宅医療や予防を中心に、本人らしくすごす時間をつくっていこうということ。

 このように今の地域では、コミュニティのつながりを重視してまちづくりをしていく動きが大きくなってきている。

 

4、衣食住としごと

 

<衣> 昔のような規模ではないが、地域ごとの伝統的な織物が復活し、それを求める人も多く、全国的に流通している。そのため昔ほど高くなく気軽に地元のお店で買えるようになった。お祭りや歳時には地元の着物を着てすごす。

 もう一つは、リサイクル・リユースが徹底していること。捨てられてしまう衣類は1枚もなく何らかの形で活用されている。学校の制服も廃止されたところが多いが、制服があるところもリユースが徹底されていて、昔のように高いお金を出して買うことはなくなった。

<食> いまや日本の食料自給率は90%に回復。日本ではとれないもの、希少なものだけが輸入されている。地産地消も徹底され、50%は地元でとれたものを食べている。というのも、風前の灯火だった伝統漁法が復活され、川の水量も自然度も高くなり、再び地元の湖沼や川でとれた魚が食べられるようになったからだ。もう一つ、イノシシ牧場やシカ牧場があって新鮮なジビエ肉が毎日提供される。

昔は獣害が大変深刻であったが、里山や奥山が持続的に活用されるようになり、すみずみまで人の手が入り(障害者や若者の雇用につながっている)、野生動物とのバッファゾーン(緩衝帯)ができているとともに、山の上に実のなる木をたくさん植えたので、動物と人間のすみわけがうまくできるようになっている。

 昔耕作放棄地だったところでは、麦、ソバ、大豆、雑穀など在来種を中心とした作物が栽培され、各地域の伝統食も復活されて、非常に栄養バランスのいい健康的な食事が普及していて、太っている人や糖尿病の人はほとんどいない。

 

<住> だれもが自分の家を持っている。昔は空き家の多さに悩まされたが、地域づくりや人口維持への理解が進み、また持ち主不明の住宅や土地も自治体が管理し公益的な目的に使用できることになっているので、今は空き家はほとんどなく、改修して家のない人やその地域に住みたい人に貸与されている。

 家はただ寝に帰るだけのところではなく、コミュニティをつくる単位である。シェアコミュニティの項で見たように衣食住もまわりの人たちとシェアすることで豊かで幸せなくらしをつくる。

 

<しごと>

 1個の茶碗をつくるのにかつて2つの方法があった。一つは東京に本社を置く会社の分工場が電気炉を使ってオートメーションの力で焼く方法、もう一つは多治見のような地場産業の方法で地域内分業の力で焼く。多治見では、陶土の採取から仕上げ、パッケージ製造に至るまで地域内の陶磁器関係事業所が社会的分業をつくり出している。これにより地場産地では、地域内で資本を何度も回転させながら、雇用も数倍生み出すことができていた。

 このような地域内分業や産業連関(原料の採取・運搬・生産・販売・廃棄を産業のつながりとしていくこと)のメリットが多くの自治体や住民、企業に理解されるようになり、外からやってきて地元の人を大して雇用せず、利益をもっぱら大都市や海外に吸い出していくグローバル企業は地域からほとんど姿を消した。X町では特産の有機農産物を活かした産業連関ができていて青山家の人々はそこで働いているというわけだ。

 

 

5、FECの地域自給と世界とのつながり

 

 「フードマイレージ」という考え方があるように、くらしに必要なものを遠くから持ってくると運ぶのに大量のエネルギーが必要となり、化石燃料由来のエネルギーだとするとその燃焼に伴い大量のCO2を発生させ地球温暖化を促進してしまう。また地下資源を使うとそれはどんどんゼロに近づき、将来世代はおなじものをつかうことができなくなってしまう。

 そこで基本的なくらしに必要な3つのもの、食料、エネルギー、ケア(それぞれの頭文字をとってFEC)はできるだけ近いところ(地元や周りの地域)から調達し、モノの流れの輪を閉じてぐるぐるまわす(循環)ようにすることで、無駄やゴミの出ない環境や健康によいくらしをすることができる。

 このような考え方に基づく「FEC地域自給圏」を目指す取り組みが2010年くらいから各地で起こり47都道府県のそれぞれで一定の広がりを持つようになってきた。ローカリゼーションの進展である。

 

 X町では有機農業が盛んで全耕地面積の1/4を占めるまでになった。有機農業に携わる人は200人にも及ぶ。この有機農産物を原料とした加工品の製造・販売も活発で、有機ブドウを使ったオーガニックワイン醸造工場もある。また有機野菜を使ったオーガニックレストランやカフェもたくさんあり、駅前のオーガニックマーケットも土日は人であふれている。

 また、昔の秣場を活用してヤギや牛を飼う人も多くなり、チーズ作りも盛んになってきた。ワインだけでなく日本酒もチーズによく合うので需要が増えている。

 荒れていた里山もきれいに整備され、落ち葉もきれいに掃かれて堆肥がつくられている。かつて珍しがられた落ち葉農業は今やどこでも見られるようになっている。

 

 X町は山地と里山と盆地、川やため池からなっているので土地の自然にあったエネルギーの供給がなされている。太陽光はもちろんのこと、バイオマスエネルギーの活用もかなり活発である。奥山や里山の手入れの際に出てくる間伐材や枝などはチップ化され温泉やビニールハウスなどのチップボイラーに使われる。太い材は玉切りされて薪ストーブ、薪ボイラーに使われる。そして製材所で出たおがくずはペレット化されペレットボイラーやストーブに使われる。沢や用水を使った小水力発電も公民館の電源として使われている。

 

「有機のX町」の名は世界中に轟いていて、世界の各地から見学や実習に来る人たちが後を絶たない。

最近はアジアからが特に多い。また逆に、上記のような食品関連の事業を始めた人たちも加工・調理技術やノウハウを身につけるために海外に研鑽に出かけ活発な交流が行われている。

 

 外国人住民も積極的にまちづくりにかかわっている。X地方では最近、外国からの観光客が増え、古民家を改修した農家民宿に宿泊してツーリズムを楽しんでいるが、各国語ネイティブの外国人住民がガイドとして仕事をしている。一度訪れた外国人訪問客の中にはリピーターになって訪れる人が増え、中には移住してしまう人も現れるほどである。外国人住民協議会もつくられ、積極的にまちづくりに関与し、日本人住民との交流・共生も進んでいる。

 

 

6、学びあいと自治のしくみ

 

 これまで述べてきたコミュニティを重視したまちづくりのありかたは一朝一夕にできるようになったわけではない。戦後の日本の地域社会の形成に大きな力になってきたのが公民館をはじめとする社会教育の力だった。この時の社会教育の中心ミッションは「住民の学習の支援」だった。

 しかし教育委員会の独立性が侵され首長に様々な権限が集中するようになると社会教育の解体が進み、総合学習の導入を契機とする学校教育への支援も既存の学校での授業の応援という形に「学社連携」が切り縮められていった。

 「まちづくりは人づくり」といわれるように、実はソフトや人材面でのとりくみが重視されているところほどまちづくり、地域づくりがすすんでいる。そこでの住民同士や大人と子どもの学びあいの

役割は次のようなものである。

1)地域の誇りや地域アイデンテティを形成する

2)地域資源を知りその活用を考える

3)市民として能動的なまちづくりの主体となる

 

 そうした学びあいが成立するためには「住民の学習の支援」ができるコーディネーターがいる。学習支援の内容としては、まず住民を学習主体として尊重し、なにをやりたいのかよく話を聞き、その意図をくみ取り、促進し、必要な資源・人材・主体とつなぎ、独り立ちして社会運動や社会実験の実践に至るまでサポートすることが求められる。

 

 X町の公民館ではまちづくりのNPOと連携して、X町の伝統工芸である紙すきや主産業である有機農業などの地域経済や産業についてのヒアリングを主とした講座やまち歩きなどを積極的に展開し、学習の推進者となる人材のプールをつくった。次に、それらの学習推進者を町会ごとの学習拠点(町会会館、自治公民館、空き店舗、空き家など)に配置し、地域課題を探る学びあいをオーガナイズする支援をした。その際にその地域の学校に必ず声をかけ、住民の学びと学校での学びがつながるよう工夫をしていった。このことをくりかえすうちに、地域の中に自然と大人と子どもの学びあいが生まれ、相互に学びを支援する関係が生まれていった。そこから地域ごとのまちづくりグループ、NPOコミュニティビジネスが誕生し、まちづくりをけん引していった。

 

 議員はこうした住民とともに勉強会を重ね、まちづくりのビジョンを磨き、町の予算をどう使っていくか、住民活動・まちづくりを支援するような条例は何かなど熱心に動くようになり、住民と議会がつくった政策を役場の職員が実行していくようになっている。