〈生の全体性の回復ーハヴェル『力なき者たちの力』が提起するもの〉

 この本の惹き文句の次の部分にピンときた。「東西冷戦下のチェコで、権力のありようを分析し、全体主義に抗する手立てを考え抜いたハヴェル」。日本もファシズムにはまだなってないが一種の全体主義で、私たち市民もそれを打ち破れないでいる。これは今の日本にも参考になるのではないか。何か手がかりが得られるのではないかと…。
 この勘は見事に当たった。ストレートな答えは書いてないが、鋭い分析が役に立つ。
「ハヴェルの分析は、ポスト全体主義にとどまるものではなく、消費社会が過度に進んだ西側社会、つまり、現代の私たちの世界をも視野に入れています。それは全体主義における「権力」の分析をしていると同時に、社会における力の様相をも解きほぐそうとしているのです。」(阿部賢一『100分de名著テキスト ハヴェル「力なき者たちの力」』NHK)
●自分が本当に欲するものは何か
 このテキストに拠りハヴェルの「力なき者たちの力」の主張を要約する。
 全体主義は「嘘の生」からなっている。だからそれを覆すには「真実の生」を生きなくてはならない。つまり「自分の良心を注視して、言葉にする」ことである。
 それはささやかなものであるが、体制、あるがままの「嘘の生」を照らし出す「光」となる。さらに「嘘の生」の中にも「真実の生」を宿した「隠れた領域」が眠っている。「開かれた「真実の生」の協力者の姿は見えないもののどこにでもいる。」
 「真実の生」は「慎ましい仕事」のほかに主に芸術、文化の領域で社会的に現れた。「並行構造」「並行都市」である。「我が国で「もう一つの文化」という概念を初めて発展させ、実践したのがイヴァン・イロウスだった。当初、彼が考えていたのは、妥協しないロック音楽、またそのような音楽グループに近い文化、芸術、パフォーマンス表現の領域でしかなかったが、やがてこの概念は、抑圧されながらも独立した文化の領域に広がって用いられ、芸術やその多様な潮流だけではなく、人文学、哲学的考察についても用いられるようになった。きわめて自然なことに、この「もう一つの文化」は、その基本をなす組織の形を生み出していく。(略)つまり、文化は「並行構造」がもっとも発展しているのが観察できる領域である。」
 この「並行構造」は「本質的に世界に開かれ、世界が担う責任」を伴わなければならない。
だからこそハヴェルはこれらを横につなげネットワークをつくることができた。
 ではそのネットワークが目指すものは西側の民主主義なのか。
「西側の民主主義、つまり、伝統的な議会制民主主義が、我々よりも深遠な解決法をもたらしていることを示すものは現実には何もない。そればかりか、生が真に目指すものという点において、現実には我々の世界以上に多くの余地があり、危機は人間からより巧妙に隠れているため、人々はより深い危機に直面している。」
「資本蓄積の複雑な構造は、隠れて操作され、拡張されていく。どこにでも見られる消費、生産、広告、消費文化の独裁、そして情報の洪水。(略)これらのいずれも、人間性の回復にいたる展望のある道筋として見なすことはおそらく困難だろう。」
全体主義的体制は、実際には何よりもまず、合理主義の当然の帰結を拡大してみせる凸面鏡である。」(東欧の全体主義権力が依拠するもの、つまり近代科学、合理主義、科学主義、産業革命から消費崇拝、原爆にいたるすべてのものを導いたのは特に西欧という認識が背景にある)
 つまりハヴェルは、私たちに「自分が本当に欲するものは何か」が見えているのかと問いかけているのだ。
●自分で考え決められる人を育てる
 翻って現在の日本の状況を見てみると、あまりにも「自分で考え自分で決められる」人が少なすぎることを痛感する。「イベントの自粛」も「休校」もすべて形の上では「命令」ではなく「要請」である。
 どう考えても、子どもたちを感染から守るために感染者の出ていない学校や地域を休校にする必要はない。しかし実際には自主的な判断を行った自治体、教委は一桁にすぎなかった(1741自治体中)。
 「自分で考え自分で決められる」ことができていないのは行政、役人たちだけだろうか? まわりが、世の中がみんなそうしているからと、自分でリスクを検討しその回避策を講じることなしに「延期」「中止」を決めていないか?
 このピンチ(新型コロナウィルスによる感染拡大)を「緊急事態特措法」という強権発動のチャンスにもっていこうという安倍首相の姿勢は、それを唯々諾々として受け容れる「世論」があることを前提にとられている。
 日本の民主主義の危機は深い。「権力対庶民」というわかりやすい構図ではなく「権力とそれを支える庶民」というつかみにくい、どうやってそれとたたかうのかわかりにくい構図が私たちの前にある。
 まずすべきことは、率直に自分の考えを述べることであり、次に子どもたちの学習権や働く人々の「働き暮らす権利」を保障するために動くことではないか。
 それにつけても、私たち教育にかかわる者が留意しなければいけないのは「自分で考え自分で決められる」ことができない人たちを生み出している日本の教育の底の浅さである。自分の興味・関心・意欲をふくらませることで探究を深め、まわりの人たちと話し合うことで社会的な協同によって問題を解決していく(社会を創造していく)ような学び方が主流になるように働くことは急務である。
 
●生きづらさを超える
 同様に、今の日本社会でのSDGsの取り組みの底の浅さを思う。「17の目標はみんなつながっている」とは言うけれど、どうやってつなげて解決するかはあまり示されない。17の目標に取り組むことは、自分の地域では、自分の学校/職場では、自分の家/個人では具体的に何をするのかを明確にしなければ、どう動いていいかわからないし、目標は達成できない。
 特に地域では〈子ども・若者にとっての生きづらさ〉が大きく顕在化している。不登校、引きこもりなどの背後にはこの〈生きづらさ〉の問題が大きくある。
 〈生きづらさ〉というのは単に経済的に困窮していることをいうのではない。社会的に人間関係的に追い詰められている状況を指している。
 組織や家族、まわりの価値観・行動様式を強制され、精神の不自由さを感じる状態のことをいうのだと思う。
 これは日本だけではなく、韓国でも(韓国の若者たちは若者が生きづらい韓国の現状を「ヘル(地獄)朝鮮」と表現している)、いわゆる「先進国」には共通して見られる社会的病理であろう。
 私は〈生きづらさ〉を超えていくことは持続可能な社会に向かうための重要な課題だと思う。SDGsの目標の一つに入れて世界的に課題解決を図る必要がある。
 人体をバラバラにしては生きられないように人間の肉体、精神、魂は一つである。人間をバラバラにできないように社会の環境、システム、経済、文化、哲学をバラバラにできない。経済の成長よりも社会の成長、人間の精神と文化の成長が社会をリードするようなそのような発展をこそ追求すべきではないか。
 ハヴェルの『力なき者たちの力』が提起するものをそのように読み取った。

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『NHK100分de名著テキスト「力なき者たちの力」

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著者のハヴェル