市民参加の自治的協同社会強化へ学びあいの場をー古沢広祐『食・農・環境とSDGs』を読んで

 1995年に『地球文明ビジョン』(NHK出版)を読んで以来、古沢さんの描く人類社会のビジョンに近しさを感じてきた。今回それを継承し、より精緻に展開した本が出たというのでさっそく読ませていただいた。そのエッセンスを紹介したい。

 古沢さんの世界認識の基本は、カール・ポラニーが『大転換』(東洋経済新報社)で示している人間の経済の三要素である<交換・再分配・互酬>を現代の経済・社会の中でどう構成しなおすのかという視点である。

 交換は市場経済の基本であり、再分配は税による富の再配分を目指し、互酬はお裾分け、プレゼント、ボランティアなどの贈与や助け合い(相互扶助)を意味している。この三者のバランスは現代社会において極めて悪くなってきており、互酬の領域が交換の領域に置き換わっていたり、再分配の公的な領域を私的な市場経済が侵食したりしている(新自由主義の考え方による「民営化」)。

 わが師と仰ぐ故須田春海さんも市民自治強化の立場から市民社会を構成する3つのセクターのバランスを説いた。古沢さんは、社会経済的視点から3つのセクターのバランスを考える。

 その内容は本書の核心部である「第Ⅲ部 ビジョン形成と社会経済システムの変革」、そのなかでも「[4]資本主義の行方と持続可能な社会」に凝縮して展開されている。

「資源・環境・公正の制約下で持続可能性が確保されるためには、新たな社会経済システムの再編が「3つのセクター」のバランス形成、「公」「共」「私」の3つの社会経済システム(セクター)の混合的、相互扶助的な発展形態として展望できる」(p.220)

「とくに第1の市場経済(自由・競争)をもとにした「私」セクターや、第2の計画経済(統制・管理)を基にした「公」セクターが肥大化してきた現代社会に対して、第3のシステムを特徴づける協同的メカニズム(自治・参加)を基にした「共」セクターの展開こそが、今後の社会構成において大きな役割を担うと考えられる。資本主義経済との関係では3セクターのバランス形成において資本の無制約な拡大増殖(「私」セクター)

に偏重しない社会のあり方が示唆されるのである。」(p.220)

「脱成長型の持続可能な社会が安定的に実現するためには、利潤動機に基づく市場経済や政治権力的な統制だけでは十分に展開せず、市民参加型の自治的な協同社会の強化によって可能となると思われる。それは、地域レベルの共有財産(コモンズ)、コミュニティ形成、福祉、公共財、地域・都市づくりなどの共同運営において力を発揮するだろう。さらに世界レベルでは環境に関わる国境調整、大気、海洋、生物多様性などグローバルコモンズの共有管理においても有効であろう。」(p.221)

 そこから古沢さんは、SDGsの政策統合的、領域横断的な機能の発揮や公と私の中間域に位置する領域、とくに「社会的連帯経済」(協同組合、NPO社会的企業など)の広がりに注目し期待する。

 わたしもその方向性に共感し、具体的な実践現場である地域において「SDGsのまちづくり」(持続可能性、社会的公正、包摂性などで統合された地域づくり=FEC自給圏の形成)と「地域資源を活用したしごとづくり」(若者の起業支援)をすすめている。

 願わくば、そうした実践者の学びあいの場をつくり古沢さんたちとより深化したビジョンと実践の指針を磨き上げていきたい。

 興味を持たれた方のために、発行元による本書の紹介のリンクを掲載しておく。食・農・環境の世界で今どんなことが進んでいるのか、また人類、世界や宇宙をとらえる新たな視角など興味深い記述が満載である。多くのことを学ぶことができるだろう。

http://shop.ruralnet.or.jp/b_no=01_54019209/

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災い転じて福となす

f:id:npo-ecom:20200408213852j:plain 最近とみに、人間というものは自分のつくったものによって縛られる存在なんだなとつくづく思う。これだけ気候危機や世界の不平等化、貧困・格差の拡大が言われても、これまで馴れ親しんできたモノがあふれかえっているのにモノをつくり続ける過剰生産・成長の生産様式や大量生産・大量消費・大量廃棄のライフスタイルを手放そうとしない。

 しかしどうだろう。1月末の武漢封鎖からたった2ヶ月で、新型コロナウイルスの感染者は世界中に広がり、生産はダウンし石油や電力の消費は大幅に下がり、空気はクリーンになってきた。大量の失業者と生活苦の人たちを生み出しながら。

 これは人間が自分のつくったものによって縛られていて自分の力では変われないことを見越した天からのお告げなのかもしれない。わたしたちはいまこそ不幸を生み出し続け地球を危機に陥れる経済や社会のあり方を変えなければならない。

 そんなことを考えていたらFB友達の投稿にすごく共感できる一節があった。

「新型コロナウィルスへの根本的な治療は、みんなが現代社会の抱える問題を共有すること、そして共に新たなビジョンを描き、希望を持って静かにシフトして行くことだと感じています。
だから一人一人の在り方や考え方、生き方になってきます。
これで充分、自分が正しい、なんてなくてみんなが問題を共有して、自然の摂理法則を学び、智恵や勇気を出し合い修めて行く。
一人だけの成長では意味がない、みんなで成長して行く社会、それが私の描くビジョンです。」

 この一節に刺激されて、変化はどこからと考えてみた。

 一つは、食料を各人が確保することである。自ら多少なりとも食料をつくる、あるいは生産者とつながることによって。すべての市民がどんなに小さくてもいいから、農的な暮らしを自らの暮らしに取り入れることであり「市民皆農」のススメである。スーパーからモノがなくなる光景を繰り返してはならない。

 二つは、これが一番難しいかもしれないが、今ある仕事の仕方を変える、あるいは仕事をつくることである。

 聞くところによると、中国から部品が入ってこないことによって人工呼吸器がつくれないのだという。だったらすべて自前で生産すればいい。昔はできていたのだからやろうとすればできるはずだ。

 その際に、小手先の「働き方改革」を超えて、例えば「週休3日、1日4~5時間労働、早く帰って家や地域の仕事をする」という働き方の質の転換を伴っていくことが重要である。家と会社を往復して自分をすり減らすような働き方、暮らし方を変え、生活、仕事のほかにしごと(地域、コミュニティ、社会に貢献するしごと)を楽しんでやる暮らしをしたい。

 三つは、学び、つながり、考え続けることである。近年、人間の脳ははじめから社会的な存在であり、社会的な相互作用(つまりコミュニケーション)を通して発達しよく働くようになる(ソーシャルブレイン)という考え方が大きくなってきている。わたしはこれこそが、人間の人生や暮らしの質を決定づける行動のもとになる考え方だと思っている。

 つまり社会の中で学び、つながり、考え続けることが、幸せな人生、豊かな社会をつくっていくもとになるのだ。このことを楽しまなくてはならない。そう考えれば、教育というものも「社会の再生産機能」から「社会の創造機能」に変わり、まったくとらえ方、考え方が変わってくる。

 以上の3つのことができていけば「モノのやりとりは近いところでできるだけ小さな輪を閉じるようにつなぎ(足りないところは公正な貿易で補い)、ヒトや知恵の交流は世界大で広く」という持続可能な世界のあり方が実現できていくのではないだろうか。

 「生命は動的平衡」と考える福岡伸一によれば、ウイルスは「進化の結果、高等生物の遺伝子の一部が外部に飛び出したもの」であり「遺伝情報の水平移動の役割を担い、進化を加速する」という。

 どうやらそれは本当のようだ。であればウイルスを敵視するのではなく、ウイルスとの共生関係を豊かにすることによって人間の社会も豊かになる。上に述べた3つのきっかけをうまく活用してそうした方向に進みたい。

 そのように考えれば、コロナ禍を「災い転じて福となす」ことができるだろう。

 

 

〈生の全体性の回復ーハヴェル『力なき者たちの力』が提起するもの〉

 この本の惹き文句の次の部分にピンときた。「東西冷戦下のチェコで、権力のありようを分析し、全体主義に抗する手立てを考え抜いたハヴェル」。日本もファシズムにはまだなってないが一種の全体主義で、私たち市民もそれを打ち破れないでいる。これは今の日本にも参考になるのではないか。何か手がかりが得られるのではないかと…。
 この勘は見事に当たった。ストレートな答えは書いてないが、鋭い分析が役に立つ。
「ハヴェルの分析は、ポスト全体主義にとどまるものではなく、消費社会が過度に進んだ西側社会、つまり、現代の私たちの世界をも視野に入れています。それは全体主義における「権力」の分析をしていると同時に、社会における力の様相をも解きほぐそうとしているのです。」(阿部賢一『100分de名著テキスト ハヴェル「力なき者たちの力」』NHK)
●自分が本当に欲するものは何か
 このテキストに拠りハヴェルの「力なき者たちの力」の主張を要約する。
 全体主義は「嘘の生」からなっている。だからそれを覆すには「真実の生」を生きなくてはならない。つまり「自分の良心を注視して、言葉にする」ことである。
 それはささやかなものであるが、体制、あるがままの「嘘の生」を照らし出す「光」となる。さらに「嘘の生」の中にも「真実の生」を宿した「隠れた領域」が眠っている。「開かれた「真実の生」の協力者の姿は見えないもののどこにでもいる。」
 「真実の生」は「慎ましい仕事」のほかに主に芸術、文化の領域で社会的に現れた。「並行構造」「並行都市」である。「我が国で「もう一つの文化」という概念を初めて発展させ、実践したのがイヴァン・イロウスだった。当初、彼が考えていたのは、妥協しないロック音楽、またそのような音楽グループに近い文化、芸術、パフォーマンス表現の領域でしかなかったが、やがてこの概念は、抑圧されながらも独立した文化の領域に広がって用いられ、芸術やその多様な潮流だけではなく、人文学、哲学的考察についても用いられるようになった。きわめて自然なことに、この「もう一つの文化」は、その基本をなす組織の形を生み出していく。(略)つまり、文化は「並行構造」がもっとも発展しているのが観察できる領域である。」
 この「並行構造」は「本質的に世界に開かれ、世界が担う責任」を伴わなければならない。
だからこそハヴェルはこれらを横につなげネットワークをつくることができた。
 ではそのネットワークが目指すものは西側の民主主義なのか。
「西側の民主主義、つまり、伝統的な議会制民主主義が、我々よりも深遠な解決法をもたらしていることを示すものは現実には何もない。そればかりか、生が真に目指すものという点において、現実には我々の世界以上に多くの余地があり、危機は人間からより巧妙に隠れているため、人々はより深い危機に直面している。」
「資本蓄積の複雑な構造は、隠れて操作され、拡張されていく。どこにでも見られる消費、生産、広告、消費文化の独裁、そして情報の洪水。(略)これらのいずれも、人間性の回復にいたる展望のある道筋として見なすことはおそらく困難だろう。」
全体主義的体制は、実際には何よりもまず、合理主義の当然の帰結を拡大してみせる凸面鏡である。」(東欧の全体主義権力が依拠するもの、つまり近代科学、合理主義、科学主義、産業革命から消費崇拝、原爆にいたるすべてのものを導いたのは特に西欧という認識が背景にある)
 つまりハヴェルは、私たちに「自分が本当に欲するものは何か」が見えているのかと問いかけているのだ。
●自分で考え決められる人を育てる
 翻って現在の日本の状況を見てみると、あまりにも「自分で考え自分で決められる」人が少なすぎることを痛感する。「イベントの自粛」も「休校」もすべて形の上では「命令」ではなく「要請」である。
 どう考えても、子どもたちを感染から守るために感染者の出ていない学校や地域を休校にする必要はない。しかし実際には自主的な判断を行った自治体、教委は一桁にすぎなかった(1741自治体中)。
 「自分で考え自分で決められる」ことができていないのは行政、役人たちだけだろうか? まわりが、世の中がみんなそうしているからと、自分でリスクを検討しその回避策を講じることなしに「延期」「中止」を決めていないか?
 このピンチ(新型コロナウィルスによる感染拡大)を「緊急事態特措法」という強権発動のチャンスにもっていこうという安倍首相の姿勢は、それを唯々諾々として受け容れる「世論」があることを前提にとられている。
 日本の民主主義の危機は深い。「権力対庶民」というわかりやすい構図ではなく「権力とそれを支える庶民」というつかみにくい、どうやってそれとたたかうのかわかりにくい構図が私たちの前にある。
 まずすべきことは、率直に自分の考えを述べることであり、次に子どもたちの学習権や働く人々の「働き暮らす権利」を保障するために動くことではないか。
 それにつけても、私たち教育にかかわる者が留意しなければいけないのは「自分で考え自分で決められる」ことができない人たちを生み出している日本の教育の底の浅さである。自分の興味・関心・意欲をふくらませることで探究を深め、まわりの人たちと話し合うことで社会的な協同によって問題を解決していく(社会を創造していく)ような学び方が主流になるように働くことは急務である。
 
●生きづらさを超える
 同様に、今の日本社会でのSDGsの取り組みの底の浅さを思う。「17の目標はみんなつながっている」とは言うけれど、どうやってつなげて解決するかはあまり示されない。17の目標に取り組むことは、自分の地域では、自分の学校/職場では、自分の家/個人では具体的に何をするのかを明確にしなければ、どう動いていいかわからないし、目標は達成できない。
 特に地域では〈子ども・若者にとっての生きづらさ〉が大きく顕在化している。不登校、引きこもりなどの背後にはこの〈生きづらさ〉の問題が大きくある。
 〈生きづらさ〉というのは単に経済的に困窮していることをいうのではない。社会的に人間関係的に追い詰められている状況を指している。
 組織や家族、まわりの価値観・行動様式を強制され、精神の不自由さを感じる状態のことをいうのだと思う。
 これは日本だけではなく、韓国でも(韓国の若者たちは若者が生きづらい韓国の現状を「ヘル(地獄)朝鮮」と表現している)、いわゆる「先進国」には共通して見られる社会的病理であろう。
 私は〈生きづらさ〉を超えていくことは持続可能な社会に向かうための重要な課題だと思う。SDGsの目標の一つに入れて世界的に課題解決を図る必要がある。
 人体をバラバラにしては生きられないように人間の肉体、精神、魂は一つである。人間をバラバラにできないように社会の環境、システム、経済、文化、哲学をバラバラにできない。経済の成長よりも社会の成長、人間の精神と文化の成長が社会をリードするようなそのような発展をこそ追求すべきではないか。
 ハヴェルの『力なき者たちの力』が提起するものをそのように読み取った。

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『NHK100分de名著テキスト「力なき者たちの力」

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著者のハヴェル


体験学習:アクティビティからロングスパンの授業へ

 20年近く「夏季集中授業」として取り組んできた「教育方法・技術D」の授業も、この8月に実施した授業を持って私が担当するのは終わりとなる。そこで<体験学習の授業がつくれるようになる>という明快なねらいを持って行われてきたこの授業の特徴を描き出し、体験学習の授業づくりについての考え方ややり方が継承されることを願いたい。

授業名●教育方法・技術D
所要時間●17時間(導入:6h, 展開:8h, 発展:3h)
会場●国立信州高遠青少年自然の家(長野県伊那市高遠藤沢)
プログラム●

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[導入]体験学習を体験する

 ①五感で自然を感じよう(1h)


 「見る、聴く、触れる、嗅ぐ、味わう」の五感
をフルに使って自然を身近に感じる。
・「音いくつ」:目を閉じて耳を澄ます。右手で自然の音、左手で人工の音を数える。2,3分の活動ののち集まってどんな音が聞こえたかふりかえりとわかちあいをする。
・「色探し」:印刷色見本を用意し、好きな色見本を手に取り同じ自然の色を探して持ってくる。いくつかのグループをつくり最も近い色ベスト3を選び、さらに全体のベスト3を選ぶ。やってみて感じたこと、気がついたことをふりかえりとわかちあいをする。
・「ブラインドウォーク」:二人一組になり、一人は目隠しをしもう1人が案内役になる。案内役は相手の安全と体験の深さを配慮し、動作の支持をしていろいろなものに触れたり臭いをかいだりしてもらう。
一通り終わったら目隠しを外して通ったところを復習し目で確認する。全員が体験し終わったらふりかえりとわかちあいをする。(写真1)

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写真1:ブラインドウォーク
 ②授業事例の分析と評価(2h)


 『地球をダメにするもの』という小4を対象としたゴミについての1年間の探究学習(社会科で行われた。この時には総合学習はまだなかった)の教師によるレポートのプリントを黙読しグループで良い点、悪い点、改善案などを話し合う。
 3グループによる発表のまとめがホワイトボードの写真。発表のあとは必ず質問、意見、コメントを求める。ここが一番大事な時間。
 やりとりを聴いていると、どうも学生たちは中高では
総合が活発ではないという学校の現実や既存のカリキュ
ラムの枠(何年までに何を教えなければならないという指
導要領の枠)にとらわれていて、思考が縮こまっているよ
うだ。中にはプラス思考の学生が必ず何人かいるのでプラ
スの意見にはエールを送る。なにが大事なのか? を考えてもらう。何歳ぐらいの子どもたちにはどんな力をつけてもらうことを重視するのか。環境教育はなんのためにやるのか。基本的な問いかけが大事。

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写真2:授業事例の分析と評価
 ③ナイトハイク(1.5h)


 今回は雨のため中止したが、これまでは1日目か2日目の晩に必ず実施してきた。学生たちのレポートで一番言及の多い人気プログラム(「星がきれい!」「ホタルを初めて見た」等)。
 学生たちを2列に並ばせて隣同士の二人組でバディをつくる。暗いところで人員の確認をするとき有効な方法である。
 出発前に静かなところで「音いくつ」を行う。心のざわめきが消えたところでナイトハイクの趣旨を伝える。「肝試しではないので脅したりしない。夜の自然と対話する。仲間とは話をしない。注意を内ではなく外の自然に向ける。感覚を研ぎ澄まして自然を感じとる。」
 毎回、中山湖までの林道を活用していた。太くしっかりした平坦な道で危ないところはない。中山湖に着くころにはすっかり目が慣れて、暗くても肉眼でかなりいろいろなものが目に見えるようになる。
中山湖の広場では草っぱらの上にブルーシートを敷いて寝っ転がって星を見てもらう。宇宙と自分との応答で生命と宇宙の広がりを感じてもらう。
 帰り道では、「ソロ」という活動を行う。1列に並んで歩き最後尾の学生に「10分後に来てくれ」と頼んでおく。先頭にわたしが立ち学生たちを一人ずつ「はいここにいて」と置いていく。最後尾の学生が全員を拾って私のところまで歩いてきたら終了。林道の出口でふりかえりを行う。

[展開](1)分析の概念を鍛える「4つの教育? 1つの教育?」(3h)

 「体験学習の授業を体験する」の4番目は、「4つの教育? 1つの教育?」(環境教育とSDGs)
 各グループに違う種類の新聞の朝刊1冊ずつ(全国紙、地方紙取り混ぜる)を配り、環境・開発・人権・平和に関連した記事を切り抜きしてもらう。それらの記事を模造紙の上に並べ、分類するのではなく各記事のつながりを考えて、そのつながりを表現してもらう。
 今回は3グループが3様の分析を表現してくれた。
①「開発によって生まれるグローバル課題」
このグループは問題の原因が開発にあるととらえた。環境破壊も核もお金の動き→経済の発展による格差の拡大も開発から生まれる。その責任は「先進国」にあり、そこが変わらなければならない。
②「4つの主題から見る諸問題の相関」
このグループはXY軸による分析を試みた。問題のつながりをポストイットに、環境・開発・人権・平和の色分けと(悪い/良い)スパイラルの説明で表現してくれた。
 例えば、〈経済格差→不法移民/治安の悪化→人権
を制限〉というマイナスのスパイラルは〈技術提供等の支援→経済格差縮小〉というプラスのスパイラルに変えることができる。
③「グローバル化による競争意識を主軸に〜世界の諸問題とその関連性」
このグループは、グローバル化が国際協調・協力に結びつかずに、逆に国家間の対立・競争を激化させていることに注目した。
 発表後の討論では、教育の重要性や現在の学校が格差の再生産に加担していることなどが話された。
 これらの分析の視点、コンセプトをさらに深めることによりシャープな探究学習を組み立てるストーリーをつくることができるようになる。

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写真3:4つの教育? 1つの教育?

 

[展開](2)「フィールドワーク~体験学習の授業のネタ探し」(2h)

 ここからは、これまでの4つの体験学習の体験に踏まえて自分たちで授業づくりを考えていくプロセスに入る。各グループに所の地図を渡し1時間の授業のネタ探しのフィールドワークの作戦を考えてもらう。1時間後に戻り発見したこと、気がついたことをマップ(発見地図)にまとめてもらう。

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写真4:発見マップ

[展開](3)「体験学習の授業づくり」(3h)

 発見マップをながめながら体験学習の授業づくりをしてもらう。ここでのポイントは、各グループが実習に使えるのは25分(模擬授業)+5分(評価・提案・アドバイス)の30分であるけれども、構想する授業のスパンは自由にとってよいということ。なぜかというと、体験学習は単なる手法なのではなくロングスパンの探究型学習の一貫した方法だからである。
 授業の基本は相変わらずの知識詰込み型だけどところどころに体験型を交えればアクティブラーニングになるわけではない。そこには次のようなプロセスが必要になってくる。
① 問題に出会う(テーマを決める)
② どうしたら解決できるのか実践的・論理的手法によって考える(解決策を考える)
③ 相互に話し合い、何を調べるのか明確にする
④ 自主的に学習する
⑤ 新たに獲得した知識を問題に適用する
⑥ 学習したことを要約する。
 なので、ロングスパンの授業構想の部分としてのアクティビティ(体験学習の活動)を期待しているわけである。
 したがって授業づくりには十分に時間をとる。グループによってかかる時間に差が出てくるので、夜にフリーの時間を確保しその時間も使えるようにしておく。
<授業づくりに必要な項目>
・ねらい ・対象 ・活動の流れ ・準備物 ・役割分担
 を学生たちに伝え、長い授業構想は模造紙にまとめて発表できるようにしておくよう言う。

[発展]体験学習の授業実習(3h)


〈ロングスパンの意欲的な授業案ができた!〉
 国立信州高遠青少年自然の家での学習院大学教職課程「教育方法・技術D」の夏季集中授業の最終日。この授業のハイライト「体験学習の授業実習」の時間だ。
 今回の学生たちはストーリーを組み立てる力がある。1日目の体験学習の体験で学んだ〈持続可能な開発〉というコンセプトを活かして、2日目のフィールドワークで見つけた現場に立ち、そこにある素材を自分たちなりのストーリーで組み立てて行った。
①「東京にホタルがいたとき」
②「自然と人間の共生」
③「身近な自然から生物多様性を捉える」
 40分間のワークのファシリテーション実習と10分間の実習に対する評価・提案・アドバイスに熱心に取り組んだ。
 評価・提案・アドバイスの時間で出てきた意見をいくつか紹介しよう。
・気づき、発見を引き出すだけでなく、それをもとに議論させる(例えばロールプレイなどの方法を使って)
・課題の出し方について(漠然とした課題か、具体的な課題か、例は出したほうがいいのか)
・身近な課題から大事なことが学べる

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写真5:授業案「ホタルのいた東京」

 

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写真6:授業案「自然と人間の共生」全11回

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写真7:身近な自然から生物多様性を捉える

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写真8:身近な自然から生物多様性を捉える

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写真9:授業実習風景

〈高遠・夏季集中授業:学生たちの振り返りから〉


・目新しい体験をたださせるということではなく、むしろ、今までになかったような視点をもたせることが重要なのだと思いました。
・様々な問題や課題の相関性を理解することができた。たとえば、国際関係の問題が開発、ひいては環境問題にもつながるということ。また地域の問題がグローバルな問題につながるということを学んだ。
 体験学習という一人ひとりのミクロな視点が学習をとうしてマクロな視点につながるように工夫したい。
・3日間を通して、まず自分の意見を相手に納得いくように伝える力が養えたと思います。
 また、考える授業は今回のようにうまく進行できればすごく良い授業だと感じました。
 授業以外では、3日間の生活を一緒に過ごす中で仲間との協力の大切さを学びました。
・教員になる身として、やろうとしてもできなかった、五感に訴えることからはじまる、生徒主体の深い学びができた、というのは自分の教師像を大きく塗り替えるものだった。
・同時に、今求められている教師のあり方とは、どのようなものなのかについて今一度考えさせられる機会になった。
・このような体験があるだけで、班ごとに全く違う展開や主題が出てくることに、教育方法の無限性を感じた。

持続可能な地域づくりは担い手育成からー『学校教育3.0』(諏訪哲郎)は地域主導で

 学校や教育を学習者中心のものに変えていくことを目指すアクティブラーニング研究会の仲間の諏訪哲郎さん(学習院大学教育学科/日本環境教育学会長)から『学校教育3.0』という本をいただいた。読みやすいブックレット状の本だが提案されている中身は濃い。

 副題「国民国家型教育システムから資質・能力重視型教育システムをへて、持続可能社会型教育システムへ」が示すように、本書は前二者の教育システム(国家や資本のための人づくり)に対する批判と、人間や社会を大切にする新たな教育への意欲的な提案の書である。本書のポイントを紹介しつつ地域づくりの実践者としてよりふくらませた論を展開してみたい。

子ども中心/地域の人々の関与/プロジェクト学習/ファシリテーター・コーディネーターとしての教師

 諏訪さんは「持続可能社会型教育システム」の要点を4つ挙げている。1)持続可能な社会形成への参画、2)地域の人々の関与拡大と教員の役割の変化、3)専従者としてのコーディネーターの養成と配置、4)共有すべき理念である。

 2)では、専門スタッフもさることながら地域の普通の人々の教育への関与拡大が「相互関与」と「教員と同等の参与」という視点から強調されている。まったくその通りだと思う。

 教育自治の観点から見れば至極当たり前のことで、国ではなく地域の人々が教育をつくれば「地域をつくる教育」が実践できる。わたしは以前「地域カリキュラム委員会」を構想・提案したことがある(森良著『コミュニティ・エンパワーメント』2001年・エコ・コミュニケーションセンター刊)。「一人の子どもが育つには一つの町が必要だ」という考えからすれば、地域の人たちが地域の教育の方向を決め、カリキュラムを皆でつくっていくのが当たり前のことになるだろう。

 そのためには市民が学習しなければならない。これからの学習はアウトプットを大事にするので、学んだことを他の市民や子どもたちに投げかけていく。そうすれば地域の中で大人と大人、大人と子どもの学びあいが起きていく。

 この「地域での学びあい」こそがこれからの教育の基本となるだろう。学校はその一部となる。地域が学校に従属するのではない。

 現状の「学校支援地域本部」なり「学校運営協議会」なりは、まだ学校が主体で学校がやる授業に地域の人たちが協力するという形になっている。そうではなく、学校の運営方針やカリキュラムを地域の人たちがつくるのである。

 本書でユニークなのは、3)の「専従者としてのコーディネーターの養成と配置」であろう。これからの教員にはファシリテーター、コーディネーターとしての役割が求められるが、現状では超多忙な教員にコーディネーターとしての過大な役割を求めることはできない。「特に、子どもたち自身の「持続可能な社会形成への参画」と「地域の人々の関与拡大」が重要な根幹をなすことになる「持続可能社会型教育システム」においては専従者としてのコーディネーターが育成され、できれば各校に最低一人づつ配置されることが望ましい」(p.61) まったくその通りで、国は教員の増員とともに各校に一人のコーディネーター配置の予算措置をすべきだと思う。

 そして諏訪さんの言うように「コーディネーターに求められる資質、能力、養成方法についての研究、調査と具体化」を急ぐ必要がある。こんごのアクティブラーニング研究会はこれを一つの大きな課題として取り組んでゆく。わたしはこれまでのコーディネーターとしての経験や養成研修などの蓄積に踏まえて培ったものをそのために役に立てていきたい。

学校は社会資本を生み出し市民と公共的空間を変える

 地域と学校のかかわりを考えていたとき、そのことについて従来の考え方を飛躍させてくれる重要な本に出会った。北イタリアの小さな町レッジョ・エミリアの幼児教育を紹介する展覧会のガイドブック『驚くべき学びの世界』(2011年・ワタリウム美術館)である。

 「都市や共同体との関係を新しくつくり出す方法を考え出し、教育の場所とローカルな場所との関係を再解釈することは切迫した極めて重要なことがらです。この新しい文脈において、学校は、言語、民族、宗教、さまざまな能力共有の習慣における差異が一堂に会する公共的な空間の役割を担いうるし、担わなければなりません。学校は、互いに互いを知ることや、差異を交歓する可能性への期待、ゲットーをつくり出さないことへの願いとともにあるのです。」

 「学校の壁の外側における保護者や共同体との人々の絆は、それ自身が重要な資源です。この観点からわたしたちは、学校は市民社会の一部として、個人と社会の関係のネットワークである社会資本を生み出すものであると信じています。別の言葉でいいかえれば、学校は市民社会の結び目であり、人々の帰属意識を高め、地域の知識を蓄積し、個々人の意見を表明することを通して子どもたちにも大人たちにも貢献する参加の機会を生み出すことができるのです。」

「学校は、人々が出会い、話しあい、差異を尊重し合う重要なダイナミクスのきっかけになりうるということです。さらに、人々の能力と願いにより、新しい市民性のアイデアを探究し、市民と公共的空間の双方を変容させる協働的な進化の一部となることができます。」

「市民性は、すべての子どもたちと大人たちが例外なく潜在的能力を有していると信じるという宣言によって、すべての人々が「特別な」差異を有していることを喜んで受け入れることによって生み出されるのです。また市民性は、次のような都市のアイデアによっても新しく生み出されるのです。都市とは「与えられたもの」ではなく、また定義され変わることのないものでもなく、市民の行動によって変容しうるというアイデアです。」

 わたしが注目するのは「学校は市民社会の結び目であり、人々の帰属意識を高め、地域の知識を蓄積し、個々人の意見を表明することを通して子どもたちにも大人たちにも貢献する参加の機会を生み出すことができる」という考えである。これはわたしの描く理想の教育の姿に近い。

 現代の地域社会では、地域に対する帰属意識を持っている人は少なくなってきている。ただそこに住んでいて勤めや学校に行っている人が多い。そのことは地方選挙の投票率の低下に端的に示されている。

 だが本当にこの社会を持続可能な社会にしたいのだったら、自らの住む(かかわる)地域をよく知り、学びも、人も、お金も、モノも、経済も地域内で循環させることを考えねばならない。持続可能な社会を望む者は持続可能な地域づくりを実践せねばならない。それは地域の成り立ちやありように興味を持ち、学ぶことから始まる。

 

子どもと市民の共同プロジェクトを

 わたしと諏訪さんは2001年にECOMから『「総合的な学習の時間」はコワくない!』という本を出している。その中でわたしはアクションリサーチという学び方を提唱した。アクションリサーチとはリサーチ(調査・研究)がアクション(問題解決の行動)

につながるという意味である。いま話題のPBL(Problem Based Learning:問題解決学習)でよく使われる方法である。その地域の子どもと市民が地域の課題についてアクションリサーチを展開していくことが先に述べた「地域での学びあい」の真ん中に据えられる。

 例えば、ECOMの事務所のある小川町は盆地の町であり山地の集水域に立地していることから水を使う産業である素麺、酒造、和紙づくりが発達し、東京から秩父への入り口や街道の要衝にあることからそれらを商う商業が栄えた。そうした地域の大地の歴史と人間の開発の歴史を学び、これからの地域産業やまちづくりに役立てることができるはずである。それは子どもと大人の学びあいという営みを通してこそ豊かな深い学び「市民と公共空間の双方を変容させる共同的な進化」となるだろう。地域と学校と持続可能な社会とのかかわりはこのようなダイナミックなものとなるだろう。

年頭にあたり<目指す地域の姿>

2018年、明けましておめでとうございます。

このブログでは、FB等で紹介できない長文の自分の考えや資料などを紹介していきます。よろしくお願いいたします。

 

アクティブラーニング研究会という持続可能な地域づくりと教育を関連させて考える研究会を立ち上げ、あるべき地域と教育の姿をわかりやすく伝える物語風の本📕を出すことになりました。わたしは<目指す地域の姿>という草稿を担当し「モノは地域の中でまわり、ヒトは広く世界と交流し、コミュニティをベースとした自然とともにあるくらし」というA4で6ページのたたき台をつくりました。日ごろ個々についてこうあるべきと考えていても、地域の姿としてまとめて描くというのは初めてでしたのでよい勉強になりました。

以下にそれを紹介します。

 

<目指す地域の姿>
モノは地域の中でまわりヒトはひろく世界とつながる

コミュニティをベースとした自然とともにあるくらし

1、全体像

(ダミー)

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2、地域の成り立ちと人のくらし

 

f:id:npo-ecom:20180105104716p:plain▲小川町植生図

f:id:npo-ecom:20180105104906p:plain▲荒川流域図

 

大地の歴史の上に展開された人間の開発の歴史

 

 埼玉県比企郡小川町は山地と丘陵と盆地から成り

立っている。山地から湧き出す水は槻川→都幾川

越辺川→荒川と流れて東京湾へ下る。

 この清冽な水を利用して和紙、酒、素麺づくりが盛

んになった。養蚕も栄えていたので絹織物もつくられ

ていた。
 交通の要衝であったため市も栄え商人が隆盛した。

スーパーのヤオコーも服のシマムラも小川町の商人

から発している。飲食店も多く、小京都と呼ばれる贅

を尽くした建築の街並みも残っている。

 池袋から1時間余という地の利から高度経済成長期

にはニュータウンもつくられ新住民も増えた。

 このように地域というのは流域という一つのまとま

った生態系の上に成立している。その基盤をなしてい

るのは大地の歴史(ジオヒストリー)であり、その上

に展開された人間の開発の歴史である。どこの地域で

もそのことに変わりはない。

 だからこの二つの歴史を自分の足で見てしっかり学び取ることから地域の未来へのビジョンが見えてくる。

 

3、家族とコミュニティ

 

家族全員が地域とかかわる

 

 X町に住む青山さん一家は6人家族。おばあさんは90歳で認知症(要介護認定2級)。認知症だけど後で出てくる駅前のカフェで来る人の話し相手になるボランティアを楽しそうにやっている。おじいさんは10年前に亡くなった。お父さんは58歳で酒造会社の酒蔵で働いている。お母さんは51歳でコミュニティコーディネーターという仕事をしている。これは10年前にはなかった職業で人々をつなぎ地域課題を解決していくうえで重要な役割を果たしている。長男は地元のツアー会社で働いている。ツアーといっても遠くに行くわけではなく、逆に地元に様々なニーズの人を連れてくることを仕事としている。次女は有機農業を営む農事組合法人の営業や財務を担当している。三女は駅前にある「埼玉裏山ベース」の運営するカフェの責任者をしている。

このように、青山さん一家6人は遠くまで通勤している人は一人もいず、全員が地域にかかわって仕事をしている。仕事のことは次に詳しく述べることにして、X町の特徴であるコミュニティでのたすけあいについて説明しよう。

 

コミュニティでのたすけあいのしくみ

 

 昔の日本の社会にはたいへんすばらしいたすけあいのしくみがあった。入会、結、講である。

入会(いりあい)というのは、だれのものでもないものを地域のみんなで共有し、その恵みがまた得られるように適切に管理し、使っていくしくみ。その代表例が茅場で、東京をはじめ各地に茅場町という地名が残されている。

茅場とは、昔の家は何年かに一回茅葺の茅を葺き替える必要があったが、その茅を共同で刈る場所である。普段は入ることが許されず、年に一回決められた期間にだけ入ることができる。

結(ゆい)は共同労働、労働交換のしくみ。茅葺屋根の葺き替えには相当な人数の人出が必要だったが、一家族だけでは賄えない。そこで近隣の家々が助っ人を出して手伝う。これをお互いさまにやり合うのが結。道普請(道路工事)などでも行われた。

講(こう)は無尽などとも呼ばれ、お金を融通し合うしくみ。富士講、伊勢講、出羽三山講などが盛んにおこなわれ、講仲間で積み立てを行い皆でお参り(観光旅行)に行った。金のない人には貸し与え、強制取り立てはしなかった。

経済人類学者カール・ポランニーは、人間の経済の歴史を総括して経済の三要素を挙げている。交換、再分配、互酬である(『大転換』1944/東洋経済新報社)。交換は市場での取引、再分配は税金の分配、互酬は講やプレゼント、お裾分けなどのお互いさまのやり取りである。20世紀初頭の社会では、グローバル経済化により再分配で行われる公の領域や互酬による共の領域まで市場経済化が侵食していた。お金がすべての社会になりつつあった。

  弱いものや自分でお金を稼げないものまで「自己責任」を当てはめることはできない。人間は昔からたすけあって生きてきたのであり、行き過ぎたグローバル化市場経済化の反省から、社会のしくみも、働き方もそのことをベースに考え直す必要があるという考え方がだんだん強くなってきた。

  そんなわけで、いまはシェアコミュニティ、つまりわかちあいを基本とする人と人のつながりがいきいきと蘇っている。しかも、昔のコミュニティのような相互監視や束縛といったマイナス面はなくなっている。というのは地縁、血縁だけでなく、趣味や文化、スポーツ、学習といったさまざまなクラブ縁、子どもつながりの縁、情報共有のSNS縁など多様な縁がすべて活かされているからだ。いまではたすけあいが当たり前の社会になっているので昔のようないじめや孤立、ニートなどもない。

  シェアコミュニティで行われていることのいくつかを紹介する。

カーシェアリング:いまは昔のように個人や家族で1台車を持つことはない。必要な人が必要な時に

使えばいいのだから、10軒に1台くらいの割合でカーシェアリングが行われている。1回2000円で家庭用プラグで充電しておきさえすればよい。

シェアハウス:一軒家や一軒のアパート、マンションでルームシェアするしくみだが、特徴は夕飯を一緒に食べること。そのために大きな共有の食堂がある。

シェアコミュニティ:昔増えてしまった空き家を活用して集落単位で活かす一つの方法。大きな家を共同食堂や共同風呂としてみんなで使い、その周りの家々にシニア世帯(一人暮らし含む)が住む。

つまりコミュニティ型グループホームである。

 

ささえあい型の地域ケア・医療のしくみ

 

 一昔前は「少子高齢化」といって高齢者(65歳以上)の人口が増えるにしたがって若年(29歳以下)の人口が減少していたが、各自治体や住民の地域再生(移住促進・関係人口増加)の取組によって人口減少カーブは緩やかになり、高齢者の増加は止まらないものの、若い世帯の増加が図られて地域の人口再生産構造は維持されるようになった。

 当時は都市と農山漁村の医療の格差も深刻であったが、医療に対する考え方も大きく変わり、ヒューマニズム(医は仁術)と住民参加を旨とする<地域でささえるケア・医療>になってきている。

 <地域でささえるケア・医療>とは、多様な人々(医師、看護師、介護士、ボランティアなど)が連携してキュア(医療)よりもケア(介護、療養)を重視して在宅医療や予防を中心に、本人らしくすごす時間をつくっていこうということ。

 このように今の地域では、コミュニティのつながりを重視してまちづくりをしていく動きが大きくなってきている。

 

4、衣食住としごと

 

<衣> 昔のような規模ではないが、地域ごとの伝統的な織物が復活し、それを求める人も多く、全国的に流通している。そのため昔ほど高くなく気軽に地元のお店で買えるようになった。お祭りや歳時には地元の着物を着てすごす。

 もう一つは、リサイクル・リユースが徹底していること。捨てられてしまう衣類は1枚もなく何らかの形で活用されている。学校の制服も廃止されたところが多いが、制服があるところもリユースが徹底されていて、昔のように高いお金を出して買うことはなくなった。

<食> いまや日本の食料自給率は90%に回復。日本ではとれないもの、希少なものだけが輸入されている。地産地消も徹底され、50%は地元でとれたものを食べている。というのも、風前の灯火だった伝統漁法が復活され、川の水量も自然度も高くなり、再び地元の湖沼や川でとれた魚が食べられるようになったからだ。もう一つ、イノシシ牧場やシカ牧場があって新鮮なジビエ肉が毎日提供される。

昔は獣害が大変深刻であったが、里山や奥山が持続的に活用されるようになり、すみずみまで人の手が入り(障害者や若者の雇用につながっている)、野生動物とのバッファゾーン(緩衝帯)ができているとともに、山の上に実のなる木をたくさん植えたので、動物と人間のすみわけがうまくできるようになっている。

 昔耕作放棄地だったところでは、麦、ソバ、大豆、雑穀など在来種を中心とした作物が栽培され、各地域の伝統食も復活されて、非常に栄養バランスのいい健康的な食事が普及していて、太っている人や糖尿病の人はほとんどいない。

 

<住> だれもが自分の家を持っている。昔は空き家の多さに悩まされたが、地域づくりや人口維持への理解が進み、また持ち主不明の住宅や土地も自治体が管理し公益的な目的に使用できることになっているので、今は空き家はほとんどなく、改修して家のない人やその地域に住みたい人に貸与されている。

 家はただ寝に帰るだけのところではなく、コミュニティをつくる単位である。シェアコミュニティの項で見たように衣食住もまわりの人たちとシェアすることで豊かで幸せなくらしをつくる。

 

<しごと>

 1個の茶碗をつくるのにかつて2つの方法があった。一つは東京に本社を置く会社の分工場が電気炉を使ってオートメーションの力で焼く方法、もう一つは多治見のような地場産業の方法で地域内分業の力で焼く。多治見では、陶土の採取から仕上げ、パッケージ製造に至るまで地域内の陶磁器関係事業所が社会的分業をつくり出している。これにより地場産地では、地域内で資本を何度も回転させながら、雇用も数倍生み出すことができていた。

 このような地域内分業や産業連関(原料の採取・運搬・生産・販売・廃棄を産業のつながりとしていくこと)のメリットが多くの自治体や住民、企業に理解されるようになり、外からやってきて地元の人を大して雇用せず、利益をもっぱら大都市や海外に吸い出していくグローバル企業は地域からほとんど姿を消した。X町では特産の有機農産物を活かした産業連関ができていて青山家の人々はそこで働いているというわけだ。

 

 

5、FECの地域自給と世界とのつながり

 

 「フードマイレージ」という考え方があるように、くらしに必要なものを遠くから持ってくると運ぶのに大量のエネルギーが必要となり、化石燃料由来のエネルギーだとするとその燃焼に伴い大量のCO2を発生させ地球温暖化を促進してしまう。また地下資源を使うとそれはどんどんゼロに近づき、将来世代はおなじものをつかうことができなくなってしまう。

 そこで基本的なくらしに必要な3つのもの、食料、エネルギー、ケア(それぞれの頭文字をとってFEC)はできるだけ近いところ(地元や周りの地域)から調達し、モノの流れの輪を閉じてぐるぐるまわす(循環)ようにすることで、無駄やゴミの出ない環境や健康によいくらしをすることができる。

 このような考え方に基づく「FEC地域自給圏」を目指す取り組みが2010年くらいから各地で起こり47都道府県のそれぞれで一定の広がりを持つようになってきた。ローカリゼーションの進展である。

 

 X町では有機農業が盛んで全耕地面積の1/4を占めるまでになった。有機農業に携わる人は200人にも及ぶ。この有機農産物を原料とした加工品の製造・販売も活発で、有機ブドウを使ったオーガニックワイン醸造工場もある。また有機野菜を使ったオーガニックレストランやカフェもたくさんあり、駅前のオーガニックマーケットも土日は人であふれている。

 また、昔の秣場を活用してヤギや牛を飼う人も多くなり、チーズ作りも盛んになってきた。ワインだけでなく日本酒もチーズによく合うので需要が増えている。

 荒れていた里山もきれいに整備され、落ち葉もきれいに掃かれて堆肥がつくられている。かつて珍しがられた落ち葉農業は今やどこでも見られるようになっている。

 

 X町は山地と里山と盆地、川やため池からなっているので土地の自然にあったエネルギーの供給がなされている。太陽光はもちろんのこと、バイオマスエネルギーの活用もかなり活発である。奥山や里山の手入れの際に出てくる間伐材や枝などはチップ化され温泉やビニールハウスなどのチップボイラーに使われる。太い材は玉切りされて薪ストーブ、薪ボイラーに使われる。そして製材所で出たおがくずはペレット化されペレットボイラーやストーブに使われる。沢や用水を使った小水力発電も公民館の電源として使われている。

 

「有機のX町」の名は世界中に轟いていて、世界の各地から見学や実習に来る人たちが後を絶たない。

最近はアジアからが特に多い。また逆に、上記のような食品関連の事業を始めた人たちも加工・調理技術やノウハウを身につけるために海外に研鑽に出かけ活発な交流が行われている。

 

 外国人住民も積極的にまちづくりにかかわっている。X地方では最近、外国からの観光客が増え、古民家を改修した農家民宿に宿泊してツーリズムを楽しんでいるが、各国語ネイティブの外国人住民がガイドとして仕事をしている。一度訪れた外国人訪問客の中にはリピーターになって訪れる人が増え、中には移住してしまう人も現れるほどである。外国人住民協議会もつくられ、積極的にまちづくりに関与し、日本人住民との交流・共生も進んでいる。

 

 

6、学びあいと自治のしくみ

 

 これまで述べてきたコミュニティを重視したまちづくりのありかたは一朝一夕にできるようになったわけではない。戦後の日本の地域社会の形成に大きな力になってきたのが公民館をはじめとする社会教育の力だった。この時の社会教育の中心ミッションは「住民の学習の支援」だった。

 しかし教育委員会の独立性が侵され首長に様々な権限が集中するようになると社会教育の解体が進み、総合学習の導入を契機とする学校教育への支援も既存の学校での授業の応援という形に「学社連携」が切り縮められていった。

 「まちづくりは人づくり」といわれるように、実はソフトや人材面でのとりくみが重視されているところほどまちづくり、地域づくりがすすんでいる。そこでの住民同士や大人と子どもの学びあいの

役割は次のようなものである。

1)地域の誇りや地域アイデンテティを形成する

2)地域資源を知りその活用を考える

3)市民として能動的なまちづくりの主体となる

 

 そうした学びあいが成立するためには「住民の学習の支援」ができるコーディネーターがいる。学習支援の内容としては、まず住民を学習主体として尊重し、なにをやりたいのかよく話を聞き、その意図をくみ取り、促進し、必要な資源・人材・主体とつなぎ、独り立ちして社会運動や社会実験の実践に至るまでサポートすることが求められる。

 

 X町の公民館ではまちづくりのNPOと連携して、X町の伝統工芸である紙すきや主産業である有機農業などの地域経済や産業についてのヒアリングを主とした講座やまち歩きなどを積極的に展開し、学習の推進者となる人材のプールをつくった。次に、それらの学習推進者を町会ごとの学習拠点(町会会館、自治公民館、空き店舗、空き家など)に配置し、地域課題を探る学びあいをオーガナイズする支援をした。その際にその地域の学校に必ず声をかけ、住民の学びと学校での学びがつながるよう工夫をしていった。このことをくりかえすうちに、地域の中に自然と大人と子どもの学びあいが生まれ、相互に学びを支援する関係が生まれていった。そこから地域ごとのまちづくりグループ、NPOコミュニティビジネスが誕生し、まちづくりをけん引していった。

 

 議員はこうした住民とともに勉強会を重ね、まちづくりのビジョンを磨き、町の予算をどう使っていくか、住民活動・まちづくりを支援するような条例は何かなど熱心に動くようになり、住民と議会がつくった政策を役場の職員が実行していくようになっている。